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執筆者の写真第九in市川

「奇跡の人、ベートーヴェン」

更新日:2020年5月9日


18 世紀末、20代後半のベートーヴェンは、耳はかなり聞こえなくなってはいたが、ピアノソナタ「悲愴」「月光」などの名曲を創作する多感な時期を過ごしていた。来る9月12日の「第九in市川」の演奏会の前プロは、バレエ音楽「プロメテウスの創造物」序曲。それはベートーヴェンの作曲人生の前期、30才の頃に作曲された。曲想は、まさにハイドンやモーツァルトの正統派古典様式で、明るく健康的な精神性に満ちている。しかし31才を迎え、ほぼ全難聴となったベートーヴェンは、自身を哀れみ「遂に私の音楽家人生は終わった!」と、ウィーン郊外のハイリゲンシュタットで遺書を書き、自殺を決意する。しかし思い留まり、「自分の耳は聞こえなくなったが、人知れぬ世界の音楽は書ける」と、一縷の希望を頼りに作曲に没頭する。そしてあの有名な、交響曲3番「英雄」、5番「運命」、6番「田園」、エリーゼのために、交響曲7番などの名曲が次々と生まれる。それが彼の作曲人生の中期である。その後弟が亡くなり、甥カールの親権を廻り義妹と争いとなる。裁判などに翻弄され、音楽に集中することが難しくなった。折しもウィーンを席巻したロッシーニのオペラの人気に押され、1818年頃からは数年間、ベートーヴェンの作曲の筆は止まってしまう。兼ねてからの孤独、持病の腸カタルが追い討ちをかけ、ベートーヴェンは完全なスランプ状態に陥った。間近に死を意識した彼には、信じるものは、己の魂と創造主しか無かった。そして不変の神理を発見する日が来るのである。自己の内面を見つめ、魂の願いを探り、万物の創造主に救いを求める日々が続く・・・、遂に魂の願いに到達し、交響曲第九番「歓喜の歌」にそれを託すことになる。これがベートーヴェンの作曲人生の後期に当たる。終生の孤独、忍土の泥沼に喘ぎ、死への葛藤を乗り越えて得た奇跡の悟り。人類の「自由、平等、平和」を希求する魂の底からの歌、まさに「宇宙の歓喜」にベートーヴェンは巡り会ったのだ。この人生だったからこそ、こうなれた!今日まで、200年の長期に渡り歌い継がれ、これからも歴史に残るであろう記念碑的な作品「歓喜の歌」は、こうして「奇跡の人、ベートーヴェン」から生まれたのである。指揮者 津田 雄二郎




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